こかわ(入曽用水)

狭山市入地区は広大な武蔵野台地の東方に位置し、およそ7万年前に青梅から流れ出古多摩川の扇状地の上にあります。表層は黒ぼく土、次の層は約1mの赤色をした立川口―ム層、その下に20 mに達する砂れき層があります。砂れき層は水を通しやすく、この地区は水を得るのに大変苦労する所でした。人間生活する上で最も重要な水を得るためには井戸を掘るか、用水路を引くか、雨水を溜めるしか方法はありません。ここに住む人たちは何世代にもわたり水を得る努力を重ねてきました。

中世、郷村の入曽村では、七曲井が飲料水などの生活用水として使われてきましたが、人口が増加するにつれて井戸だけでは不十分にな用水路を掘削しました。これがこかわ(入曽用水)です。入間市宮寺から流れ出る林川から用水を引き込み、村の中央で2つに分け村民が利用していました。その長さは約3.3㎞、深さ約30㎝、川幅約1.8 mです。天正6年(1578)に出された史料には「用水をみだりに掘り崩す者がいたならば、厳罰に処する」と書かれてるので、それ以前から入曽村民に使用されていたと思われます。

近世、寛文6年(1666)に水野村は立村し、10か所の井戸が掘られましたが不十分でした。そこで、延宝2年(1674)南入曽村の名主に用水の分水を頼み込んでいます。多くの困難を抱えていましたが、元禄12年(1699)の分水により水野の村民は大いに助かりました。

入曽地区の人たちは不老川を大川おおかわ」と言うのに対しこの用水は「小川こかわと呼び、親しんできました。また、水量が少ない時には、名主の屋敷地で地中に浸み込んでしまい、「末無川」とも呼ばれていました。

 

参考文献 狭山市刊「狭山市史 近世資料編ⅠⅡ」・入間公民館刊「狭山市入間の歴史 正続」

 

 



上流編 -始まりから県道所沢狭山線まで-

こかわの上流は三面護岸され、用水路跡としての流れを辿ることができます。昔をしのばせる懐かしい風景も見られ、また地域の人達によって清掃が行われ、雨水排水に役立っています。新宿線から下流は暗渠になり駐輪場に利用されています。


 

下流編 -県道所沢狭山線から不老川の落ち口まで-

県道所沢狭山線から下流のこかわは、南入曽で2つに分かれ、後に水野に分水されて、集落のくらしを支えてきました。昭和20年頃まではきれいな水が流れていましたが、水道の普及と共に使われなくなり、水の流れもいまや途絶えて、人々の記憶から消えていこうとしています。現在、下流の大部分は土砂や落ち葉で埋まり、面影だけが残っています。水を求める先人たちの努力と歴史に想いを馳せてみませんか。

こかわは、用地については狭山市の管理課が担当しています。一部の区間は民間に払い下げられています。



冊子 こかわを訪ねて -入曽用水ー  復刻版      2016年11月20日発行