七曲井と観音堂   
七曲井」は、北入曽(字堀難井)にあり、すり鉢の形をした古代の井戸で、武蔵野の歌枕として名高い「堀兼の井」の一つといわれます。脇を通る道が古代は入間路、中世は鎌倉街道であったことを考えると、遅くとも9世紀後半から10世紀前半にかけて武蔵国府(入間郡の郡衙)によって掘られたと考えられます。
井戸へ降りる道は、上部は階段状で、中央でジグザグ形に曲がり、底近くで回り道になっています。井筒部は、玉石で周囲を囲んだ中に松材で井桁が組まれています。井戸の周囲は70m余り、上部直径が18~26m、底部直径が5m、深さが11.5mです。すり鉢のような形は、武蔵野台地に残る数少ない漏斗状(ろうとじょう)井戸の典型と言えます。下り道がジグザグに幾重にも曲がっているので、七曲井といいます。  
文献によると、1270年(文永7年)から1759年(宝暦9年)まで数度にわたり修復されたことがわかります。その後使用されなくなり、土砂やゴミが堆積しましたが、1970年(昭和45年)に発掘し復元しました。近年に壁の一部が崩落したため、2005年(平成17年)に防止工事が実施されました。この工事により当初と形状が変わりましたが、本体は半永久的に保存可能となりました。1949年(昭和24年)に、埼玉県指定文化財・史跡に指定されました。
七曲井の横にある常泉寺観音堂は、1202年(建仁2年)に創建されたと伝えられます。常泉寺は観音堂だけを残して1689年(元禄2年)、現在地へ移転しました。本尊は木造聖観世音菩薩坐像で、川越の仏師大覚が、常泉寺住職の隆寛から依頼され、1776年(安永5年)から1819年(文政2年)の間に造られたと思われます。1986年(昭和61年)に狭山市指定文化財・彫刻に指定されました。
 
「ある年、大きな干ばつが起き、村人が聖観音に祈り続けたところ、七曲井から清水が湧き出して、村人は助かった」という伝説が残されています。また、毎年1月11日、観音待(かんのんまち)と言うお祭りが行われ、馬が着飾り井戸の周りを何度も回ったそうで、大勢の人たちでにぎわいました。境内には、石橋念仏供養塔、普門品(ふもんぼん)供養塔、大日如来坐像が立ち並んでいます。


井 戸
最も大切な飲料水などの生活用水は、井戸を掘ったり用水路を引いたりして利用していました。井戸は20mも掘らなければならず、家が一軒建つ程の経費が掛かります。江戸時代、南・北入曽村の人たちは「もやい井戸」と言って7軒から12軒位で1つの共同井戸を使っていました。最も遠い家は300mも離れ、天びん棒で一度に50リットルほど運びました。途中で休まなければならないほどの重労働で、主に子どもや女性の仕事です。井戸の清掃も容易でなく、何年かごとに井戸替えしなければなりません。

コンクリート製になったのは、大正時代以降です。1955年(昭和30年)入曽地区に簡易水道が引かれ、後に上水道が整備されました。そして現在でも、当時の井戸が残され、災害用の緊急用井戸として大切に守られています。